Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
皆様たくさんのご視聴・コメント頂きましてありがとうございます。新たに常磐線の列車も追加しました動画も投稿しましたので、併せてご覧いただければ幸いです。ruclips.net/video/IlpwVfGZ88I/видео.html
私がよく利用したのは、夕方上野を出る福島ゆきでした…基本は宇都宮のEF58の牽引でしたが、共通運用だったデッキ付きのEF57が運用に入る事も。また翌日の改正で黒磯打ち切り&115系置き換えとなる125列車福島ゆきの先頭に立ったのは…何と当時あけぼのも牽引していたEF65PFでした😲!そして別件ですが、小6の夏に初めて母の実家の会津若松に行った時、往路は583系のはつかり1号と455系のばんだい1号のグリーン車同士を郡山で乗り継ぎ・帰路は夕方に会津若松を出る臨時特急あいづ51号でした。帰路は東北線内で先行していた急行が落雷を食らった影響で当時寂れた東那須野…現新幹線停車駅の那須塩原…で2時間以上足留めを食い、上野に迎えに来てくれていた父と赤羽ゆき最終電車に乗る羽目になりました😖会津若松滞在時には、まだC11が旧型客車を牽引していた日中線にも乗りましたっけ✨
現在この長距離を運行する列車はなくても、はるか遠いところまで上野駅から鉄路が繋がっていたんだなって思うと感動します。個人的には(しな鉄)屋代から長電に直通して湯田中に行っていたのも熱いですね
普通 一ノ関行き宇都宮から各駅に止まります。すげぇ...
8:35
一体、何時間かかるんだ…
普通というより快速ですね。上野~一ノ関だと7時間はかかりますね。
父がまだ車の免許持ってなかったので親戚の家に行くのに良く乗ってました埼玉から栃木でしたけどその頃は、電車ではなく客車でしたね快速ではなく、完全に各停でしたよ。親と次は「ママだ」(間々田)って言ってましたから(笑)
当時は上野⇒一ノ関まで乗り通した人は何人いたのか気になります
まさかこの数ある優等列車の中から草津が生き残るとは誰が想像できたであろうか(しかも特急に格上げされて)
165系急行「草津」→183系特急「草津」→185系特急「草津」→651系特急「草津」→E257系特急「草津・四万」
今でこそ籠原行とかよく走ってるけどこの時だと鬼ほど短い距離の運転に見えるw
乗り換え無しで今のしなの鉄道へ行けたいい時代
22時台の普通、長岡行きって泥酔で寝過ごして気付いたらそこは越後の国なんて恐怖もあったんですね。
「およそ鈍行を通す隙間など存在しなかった」と聞いたことがあるが、まさしくその通りやな・・・
上野-大宮間が平行ダイヤになる直前の時刻ですね。当時は赤羽で先行列車追い抜きなんて光景もありました。私はこの時代に通学で使ったりしていましたので、よく覚えていますので便乗して昔話を。特急急行だけで超過密だったこの時代は、大宮駅のホームも奪い合いだったので大宮通過の特急も多々ありました。速度を緩めないで大宮を通過する特急電車は迫力がありました。日中は普通電車が使い物にならないので、大宮までは京浜東北線を使うのが当たり前でした。その普通電車も高架ホームだったり地平ホームだったりとバラバラでしたし。数本あった客車普通列車は主にEF57が牽引していました。曲がりくねったポイント群をクリアしてゆくデッキ部分の台車の迫力と言ったら、それはもう…!夜行の急行はほとんどが赤羽通過でした。客車列車は速度の上がりが悪いこともあったのですが、赤羽線からの客のキセル防止の意味もありました。上野から乗り込むキセル狙いの客を捌くだけで大変だったのです。夜行列車が多く出る時間帯は特に地平ホームは壮観でそして大層五月蠅い物でした。ここにはない常磐線経由のゆうづる号も含めると3本も4本も並び、それぞれに間違えて乗らないようにとホームからひっきりなしに注意放送が流れるけれど、電源車の音がそれを上回るほど五月蠅く、ホームではその後の列車を待つ乗客が座って酒盛りしてたり、荷物車に積み込む荷物を運ぶガソリンカーが客を搔き分けて走り回りと、排気ガスの匂いと酒そして立ち食いソバの匂いとが混ざって、子供の私には「何か来てはいけないところに来てしまったのではないか?」と錯覚を起こさせるほどでした。現在も時々上野駅を利用しますが、長距離列車はほとんどが新幹線になり、その新幹線も上野から利用する人はほとんどいない光景を見るととても寂しい気持ちになります。
大宮駅通過の特急には衝撃を受けました。そういう訳だったのですね。
時代を駆け抜けた思い出の名列車と共に聴く名曲もたまりませんね。
めちゃめちゃ興奮するなこの時刻表!やまびこ1号の停車駅ヤバい、大宮の次の停車駅郡山って・・
この翌年10月改正で宇都宮停車になりました。
東北本線を通る特急や急行が数多く停車した時代に比べたら、宇都宮は凋落したな
懐かしすぎて、鼻の奥が痛くなりました。あかぎも、わたらせも、信州も、思い出があり過ぎる。。。
ちょうど鉄道にはまっていった時でしたが、なにぶん小学1年生。上野駅は憧れのまた憧れの土地でした。これに常磐線が加わるのですから、往時の上野駅たるや・・・。
ホームの上に乗車札が夥しい数ぶら下がってた頃
あれ全部手作業で行ってたんですよね。今だったら考えられないですよね。
急行あかぎ小山行き、急行つくばね勝田行き両毛線や水戸線を全区間走破する急行って、なんだか今となってはすごいことだと思う
小山駅を通らない短絡線懐かしいですね。
水戸線は常磐線日暮里-友部よりも先に開業、水戸までのメインルートだった名残かも。
急行つくばねは私も2回程乗車したことがあります。(上りのみですが)確か水戸線内は普通電車(結城―勝田)でした。ちなみに現在の水戸線は小山―友部(一部水戸・勝田・高萩)の普通電車のみでしかもワンマン運転です。余談ですが、水戸線内でも1日3本くらい客車列車が走っておりました。(残念ながら乗ったことはありませんでした。)
すごい...こんなに急行と特急が...普通列車もすごいロングラン...
群馬県民だが熊谷から先の快速列車があったのがうらやましい
日光行きの普通列車が一日に何本もあるのは意外でした。
早くから電化されてお召列車も運行されていて、東北道からの有料道路が出来るまでは東武と共に今と比べ物にならない輸送量だったようです。今は逆に東武とJRで呉越同舟として東武からもJRからも特急運行。
当時特急・急行以外は全部普通だったんだな、と思っていたら既に当時快速(8時16分発 水上行き)があったのが意外でした。快速なんて新幹線開業後に誕生したものだとばかり思ってました。
停車駅も面白いですね。浦和通過で宮原停車。今は逆ですが。
朝方の東北・高崎両線の快速は、更に前には115系での遜色急行だった筈。中央線のかいじ&かわぐちにも115系での運転がありましたが、こちらはサロ165を改造&スカ色化して連結していた時期があったようです。
今高3の俺にとっては上野からあり得ないような行き先ばかりで見ていて面白いです。親父の実家が熊谷の近くにあり、友人が終電がわりに能登を使ったら寝過ごして直江津まで行ってしまったという話を聞きました
それ、自分の会社のOBがやらかして今でも語り草になってます。「すみません、今日、会社にいけません。目の前に日本海があります!」…と、翌朝会社に電話したらしいですよw
宇都宮線・高崎線の普通列車の本数の少なさは今から考えると衝撃的
特急、急行が多すぎて普通列車が上野まで割り込めないので大宮始発の高崎線、東北線の普通列車がありました。
@@194194 さらにそこに貨物と荷物列車が入ります。
普通列車はオマケで走ってた感じですね。今は普通列車が主役のダイヤですよね。
東北新幹線開業後は、全国から115系をかき集めて中距離電車主体のダイヤとなりました。
この本数しかない上にストライキや順法闘争なんかされたら暴動が起きるのも必然か。
素晴らしい。高崎線確かにあさまの後4分後にときが続いていました。毎時46分と49分の頃もありました。常磐線もお願いいたします。
東北本線、高崎線の普通列車は、それぞれ30分間隔でした。今では考えられないですが。
懐かしい!急行や特急の全盛時代。今とは違って東北線は低いホーム、上越線は高いホームで別れていたんですね。
19番線、20番線懐かしいですね。18番線は痕跡残ってますね。
懐かしい列車の数々、涙が出そうになるほどでした。よくぞここまでお調べになられて…と、敬服いたしました。
16時40分急行つくばねは小山には寄らず、ひとつ手前の間々田に停まり、短絡線で水戸線に入っていた。水戸線では当時無人駅だった小田林と東結城以外に停まってました。子供の頃田舎に行くときはつくばねだった。
東北線の福島行・一ノ関行の客車普通列車が懐かしいです。それも当時既に電車ホームになっている東大宮と野木が通過。さいたま新都心・土呂・新白岡・東鷲宮・自治医大は当時未開業です。
懐かしくも興奮して見ました。特急・L特急・急行・寝台列車…よい時代でした。特急が今の新幹線、急行が今の特急というところでしょうか。特急の停車駅の少なさに、これが特急だよなと思いました。
特急としての威厳があった時代でしたね
この時期の東北本線出発時刻表は懐かしいですね。東海道線の早朝に到着する夜行列車から一番の日光行に乗換えたものです。さらに宇都宮、黒磯で乗換えました。早い時間帯の夜行列車は八甲田、津軽1号を、遅い時間帯では津軽2号を利用しました。
普通一ノ関、郡山、福島行きがありましたよね。でも当時にくらべると普通列車なら黒磯以北は本数も増えて到達時間も短くなってべんりになってます。
ありがとうございます。素晴らしい動画です。懐かしくて涙がでます。L特急とき13号は最終新潟行きですね。上野の次は水上ってびっくり。それから盛岡行き特急やまびこ号や寝台特急北星、仙台行き急行新星に乗ったこと思い出しました。新星は生まれて初めて乗った寝台列車でした。20系の中段でしたがとても興奮しましたよ。大宮で眠くなり、起きたらもう仙台手前の長町駅通過中でした。またかなり小さい頃特急白山2号に乗って、父の実家の金沢に行きました。雪で金沢着は2時間遅れて特急券払い戻しになりました。改札口に行く途中、金沢駅で雪まみれの名古屋発特急ひだ号が到着したことも覚えています。ほんとうに鉄道が楽しい、良い時代でした。当時は東京に住んでいましたが、現在は金沢にいます。
かつての伝説の列車たちを現在のLED表示板で表現するなんて渋すぎる。しかもBGMと時計の分を秒に換算して表現しているのも秀逸。ただただ脱帽するばかり...
25:43からの東北本線が全部寝台特急になってるの好き
寝台列車の全盛期ですね。
懐かしいですね。白山は3号までありましたかね。急行越前。北陸号、能登号、思い出があります。上野駅もこの頃は本当に、にぎやかでしたね❗。いい時代でしたね。ありがとうございました。🙇
23:58発「妙高5号」直江津行・・・夏休み、母親の実家に帰省する時乗りました。走行中ドアが開けられる旧型客車座席車5両プラスA寝台1両B寝台2両荷物車郵便車の編成でした。
この映像をみて、当時の長距離特急の停車駅の少なさには驚かされる。現在の特急はかつての準急並みである。一方で、普通列車の本数の少なさにも驚かされる。(多くの優等列車に線路を占拠されていたから、増発もままならなかったと思われる。)因みに6時20分発の高崎行きは、客車普通列車でした。
はつかりややまびこ、はくたか、いなほはとくに少なかったですね。
ときやひばりのように所要時間3時間から4時間でも食堂車付いていたのでやはり採算度外視だったのですね。
普通列車は大宮発着になりますね
新幹線が出来て、確かに便利にはなったかもしれませんが それと引き換えに失ったものも沢山あるのだなと感じました。
今も少しありますがホームにはたくさんの列車名の札が吊るされていましたよね。おがとか天の川なんか見るとほのぼのしました。
普通列車でも時間帯によっては浦和駅通過の時代でしたね懐かしいです。当時、浦和駅周辺の大きいお店と言えばイトーヨーカドーでした。
16:00発のはつかり5号、これが何故か1Mでした。そう、1M(はつかり5号)→1便(青函連絡船)→1D(おおぞら1号)と接続し、上野~青森~函館~(札幌)~釧路を全て「1」を冠した列車と船で繋いでいたんですね。
北海道連絡の最速列車でしたね
当時は当たり前に存在してた急行、寝台そしてここにはないが準急の種別が今じゃ過去のものになったと思うとなにか寂しく、儚く感じる。スピードと快適性を追い求めてきた結果が新幹線による速達化と快適性の向上だったが同時に長年人の流れ、物の流れ、道中の空気、そして各地の景色を車窓からのんびりと眺める事の出来る正に人の持つ5感を最大限に感じれる、旅とはなにかと考えれる長距離列車が次々と消えていき、今じゃ片手で数えれるほどの先を急ぐ特急が生き残ってる。新幹線が北海道から鹿児島まで繋がり各地の都市と繋がるようになれば、その時には特別な特急とは別の「生活の1部になっていた特急の種別と列車旅」って言葉が一緒に消えていくのでは無いかと思う。「時間は有限」って言葉の通り、現代社会において時間をお金で買うのが当たり前になってきたが、時間を捨て快適性もすてて長距離列車に揺られ、「ヤット目的地に着いた」時のあの達成感と疲労感を味わう、当時の人が感じれたそんな経験をしたい。
鉄道ファンにとって、今となっては夢のようなダイヤですね!この頃の上野駅に行ってみたかったです!
現代の人には現実は厳しいですよ。タバコ臭い車両と、デッキ付近は開放式のトイレのせいでアンモニアくさかったですよ。あと今はほぼないですが、痰が地面にいっぱい落ちていた記憶があります。駅のトイレも使えたものではないほど汚かった。衛生的には最悪でした。
唯一よいのは食堂車の美味しそうな匂い。
但し寝台列車はヘッドマーク無しでしたけどねこの頃は。
@@hayato0905yさん タバコが吸えない所の方が少なかったですからね。新幹線、特急、急行(以上国鉄)、国鉄普通列車の郊外区間、駅構内、飲食店、病院内、大学構内とまあどこでも吸えました。東京ディズニーランドだってアトラクションや売店以外はどこでもタバコが吸えました。嫌煙派の人が当時にタイムスリップしたら発狂してしまうのではないかな。
夢のようなダイヤで自分も感動しましたが、いざ利用するのかといわれれば、便利な新幹線・どこでも行ける自家用車を利用して、結局利用しないんだろうなぁとしみじみ考えてしまいました。
新幹線の開業で便利になった現在ですが、20代の私にとってはこの時代がとても羨ましく思います。急行のボックス席で偶然乗り合わせた方と語り合いながら同じ時を過ごす。時は金なり、個人主義の現代において、実は見過ごされている重要な要素、そんな人々のコミュケーションがこの時代にはあったのかもしれません。
楽しそうな時代ですね。しかし実際に当時を生活してみると普通電車の少なさに不満を感じるかもしれないですね笑
混雑もなかなか激しそうですよね特に高崎線の大宮以北なんかは当時宅地開発が進行してなかったことを考慮しても厳しそう
今から40年ほど前でしょうか、高崎線のとある駅では時間帯によって普通列車が1本も走っていない時間帯もありました。
@@国鉄ジェネレーションリターンズ やべぇ時代ですね
今は「白山」が北陸新幹線になってはるかに便利になりましたね
わぁ~!懐かしい列車や行先が盛り沢山。当時は良い時代だったな✨
当たり前かもしれませんが、籠原行とか小金井行とか今もあるダイヤがこのときもまだ運行形態が変わってないのが感動
この時期に、高崎線に縁がなくて良かった。むちゃくちゃローカル線、今でも乗るたび見るたびため息が出る。ため息の高崎線
ローカル線?とんでもない!首都圏と上信越、北陸、羽越方面への列車が行き交う重要路線ですよ。この頃から高崎線沿線に住んでますが、優等列車の多さと貨物の多さは、ハンパなかったです。現在ほど通勤路線ではなかったものの、高崎線内の急行停車駅を見れば、普通列車不足分を補っていましたよ。
1977年といえば自分が上野の鉄道高校に入学した年で試験で学校が早く終わると11時19分の一ノ関行きで帰ってました。もちろん車両は旧型客車です。
懐かしい・・・目頭が熱くなった。奥羽本線の横手に本家があって「急行おが」「寝台特急あけぼの」「特急つばさ」などによく乗りました。正月・GW・お盆休みなどの混雑期にはデッキや通路に新聞紙を敷いて座ったりしてましたね。
少し後の時代ですが始発電車に乗って上野や東京駅に行って撮影をしていましたちょうどブームで早朝から自分と同じような小学生・中学生がいっぱいいた田舎が岩手だったので上野駅は今でも帰ってきたと思える駅です
「終点に着くのいつだよ…」となるような真夜中に出る長距離普通列車や、聞いたことの無い急行など、面白い列車がいっぱいで、感動しました!!
普通一ノ関行きとかですね(宇都宮から各駅)。
普通長岡行き長岡駅に何時に着くんだろと思ってしまいますね今でも長距離普通列車が存在していたら全区間乗り通してみたいなと思いました
中学生の夏休み、学割使って乗った急行よねやま•••懐かしいですねぇ。
普通の客が乗れる普通電車少ないこれじゃ高崎線とかが地獄みたいな混雑になってた事がよくわかる
しかも埼京線もなく混雑が集中。暴動がおきるのも無理はない。
なぜ停車駅が「尾久、赤羽、大宮から各停」で浦和がないんだと思ったら1982(昭和57)年から中距離列車の終日停車開始なのか
浦和もそうですし、川崎とか(横須賀線は停車)、松戸・柏とか、中距離電車は通過してましたね。
昔の高崎線、東北本線の普通列車は浦和駅通過があったので迫力がありましたね
当時特急で輸送量が満杯だったので今よりも多くの割合を緩行線側に任せざるを得なかったのでしょうね
@@user-komcom 74年の時刻表持ってますが(自分は2000年代の人だけど...)、中距離電車は大宮発着も結構多いだったようです...
@@RS-nq8xk そういえばそうらしいですね
なんかやけに普通列車少ないですね、1〜2本の時代だったんですね、高崎線両毛線回りの小山行き、吾妻線直通現在の長野原草津口行きにしても現在は乗り換えが必須なのに国鉄時代はレアですね、急行列車も含め
特急はたくさん走ってるけど鈍行列車は少ないね6時20分の高崎行きを逃すと53分後の黒磯行きまで隣の尾久駅に停まる電車が無い…
北関東主要駅の最終が急行等を使うことで今より遅くなるという事実に衝撃(ムーンライトながらに横浜までの指定席券持ってたリーマンよりびくりつだ)
とても興味深く見ています。また、ヒーリングとしても聞いています。
母の実家が富山で夏休み夜急行で上野から10時間以上かけて行ったのを思い出しました。もちろん自由席なので朝から上野駅で場所取りをホームの時刻の札の下で新聞紙をひいてお母さんの作ったおにぎりを食べながら座って並んでました。もちろん冬は寝台特急で行きました。寝台車も窓に並行の寝台でした。懐かしい思い出です。
その当時は生まれていなかった身ですが、とてもロマンを感じます。一方でこれだけの特急・急行車両を運行していたとなると、そりゃ赤字にもなるよなぁと
これにさらに常磐線もあるわけですからね、、上野駅にカメラ持って写真撮りに行き始めたのは、私は82年ぐらいからでしたね~。
ざおう3号が仙台行きに(T-T) 懐かしい。さらに下ホーム端っこ側から常磐優等の発着があったからね~ お疲れさまでした。
みちのく懐かしいですね。
上野発長岡行きなんてあったんですね…この頃はロングラン運用が多いですよね…!でも小金井行きとか宇都宮行きとかよく見る行き先もありますね!
まさしく「北の玄関口」ですね。こんな時代があったんだなぁ。
この当時、私の父は入場券を買って1日中駅のホームに居たことがあるそうです(笑)その頃は、入場券の時間制限がなかった上、ホームに駅そば屋さんなどがあったため、列車を待つのもほとんど苦ではなかったそうです。しかし、早朝に発券された入場券で深夜に改札を出ようとしたら駅員さんに「お前は今まで何をしていたんだ!?」と、ツッコミを入れられたと聞きました(笑)
155系、455系、183系、189系、485系、583系などが活躍していた時代ですかねそんな車両ももうなくなってしまいましたね(455系はまだある)古き良き時代ですね、僕が物心持ち始めた頃は既に国鉄からJrに変わってからだいぶ時がすぎた時、小さい時にポケモンのスタンプラリーに行って、その途中に189系と583系を見ました。特に583系は最初に見た時「何だこのでかい電車は?!」と思いました僕もこの時代に生まれたかった……
子供の頃、家族で東京から小山に帰宅する時、急行に乗って帰った覚えがあります。かなり混んでていて、出入り口付近でずっと立っていて外を眺めていた思い出があります。確か間々田駅で、時間調整か何かで一時停止したんだよな。扉は開きまませんでしたけど。
大宮、高崎、宇都宮通過する特急があったんですね。
当時特急やまびこ特急とき特急ひばり現在上野東京ライン上野東京ライン上野東京ライン
1998年の大学受験の帰りに渋川行に乗って群馬に帰ったっけ。最近まで伊勢崎行とか横川行とかあったような気がするけど、今や前橋行でさえ少なくなっちゃった。
さすが「北の玄関」を象徴するダイヤ。そりゃこれらを題材にした曲(特に演歌)が生まれる訳ですね。
高崎線上越線に普通長岡行きにびっくりしました。
意外と昼夜を別たず特急・急行があちこちの街の駅にきめ細かく停車している・・・。当時の国鉄は、昨今の新幹線と異なり、小さな街をも切り捨てず、むしろカバーしていてそれなりの高サービスの提供を考えていたことが窺えます。ある意味、本当の意味での地域密着型サービスとも言えそうです。良い動画をありがとうございました。
私自身のまだ子供の頃である。懐かしいですね。少なくとも小学校に上がるまでです。
とにかく長距離輸送に特化してて普通列車の本数がマジで少ない東海道線は大船まで横須賀線が、東北本線は大宮まで京浜東北線が線路を共用していたけどそこから先は長大編成、本数少なめの「列車型ダイヤ」で不等時隔の普通列車を待つしかない...利用者には不便極まりないなだからこそ新幹線は正解だった訳でそこに長距離輸送がシフトしたから普通列車の本数が激増して使いやすいダイヤになったんだけど、やっぱり在来線長距離列車ってロマンあるよねその分中国やドイツはいいよなぁ、高速鉄道が全国に伸びても当たり前の様に在来線長距離列車が幅を効かせてるんだもん...高速鉄道は高嶺の花、あくまでも飛行機への対抗であって庶民の移動は在来線長距離列車、ってスタイルがクッソ羨ましい...
懐かしすぎて涙が・・・
東北本線欄に新潟とか高崎線欄に小山とか頭バグるんだよなぁ・・・
とても懐かしく拝見いたしました。上野到着前の車内放送の乗り換え案内で、○○は高いホームの○番線、○○は低いホームの○○番線という車掌のアナウンスが思い出されます。今は新幹線の全列車が停車する大宮を通過する特急が沢山ありましたね。
当時は-27歳なので本当にこんなダイヤがあったのかと疑ってしまいました。特急や急行は異常に多いのに普通がかなり少ないですね
夜行列車がちらつき始めた頃にチューリップの「旅」に変わるのエモすぎるな....
いなほって上野から青森まで走ってたのか!
懐かしいですね。親の教理が仙台で「ひばり」には大分お世話になりました。ただ、「はつかり」や「やまびこ」には乗れなかったなぁ。大宮にはすべての特急が停車すると思っていましたが、東北、上越ともに結構通過してたんだなと気づかされました。夜行は、常磐線回りが多かったので常磐線も載っていると地下ホームの特急並びが想像できて楽しいですよね。もち、カメラ小僧でしたよ。ただ、自宅へ帰れなくなるので夜行列車は撮れなかったなぁ。到着時刻も早かったんでブルトレは東京駅でしたね。
普通列車なのに停車駅案内出されてるよ(しかも結構飛ばしてない?)…まじでビビってます
急行いいで、東北本線から磐越西線経由の新潟行き!?果たして乗り通す人は居たのだろうか。今もこの列車があれば、動画のネタで乗り通すRUclipsrが間違いなく出てくると見た。
スーツさんやがみさんは間違いなく挑戦してたでしょうね。
この列車、案外と乗っていたんですよ。関東から会津若松までの乗客に加えて、(仙台)-郡山-新津・新潟の乗客が加わるので、郡山発車時点では繁忙期だと立客も多数出ました。ちなみに、グリーン車以外は非冷房でした。猪苗代湖畔で風が通るようになるまでは暑くて暑くて;;
大変素晴らしい動画ではありましたが、東北線、16時40分発の急行「つくばね」(水戸線経由勝田行き)で、停車駅に「赤羽、大宮、久喜、古河、小山、小山からの各駅」とありましたが、古河から先の停車駅、私の記憶では「間々田、結城、川島、下館、下館からの各駅」で、結城からは普通列車であったように思います。当時、私は水戸線沿線に住んでおり、昭和60年3月の廃止までにこの列車は何度も利用しましたが、古河、間々田と停車、小山駅の入口から水戸線の線路に方向転換無しで入れる貨物線を通り、小山駅のホームに入らずに水戸線に直通しておりました。最近入手した復刻版時刻表(昭和47年版と同57年版)でも、この経路となっておりました。なお、普通列車になる区間は、47年版では下館と勝田の間(停車駅は、赤羽、大宮、古河、間々田、結城、下館、新治、岩瀬、稲田、笠間、友部、水戸、勝田)、57年版では結城と勝田の間(赤羽、大宮、久喜、古河、間々田、結城、結城より先は東結城を除く各駅に停車)となっています。52年当時、自分の記憶では結城から普通列車で、東結城通過だったように思いますが、当時の時刻表やその復刻版が無いためわかりません。お忙しいところ恐れ入りますが、ご確認をお願いいたします。
四角のお茶のパック、よく買いました。
親の実家が烏山でしたので、上野から宇都宮まで「急行なすの」に良く乗ってましたね。宇都宮から烏山線に乗り換えるのですが1時間に1本くらいしかないので、時間がある時は駅ビルラミアでラーメン食べたりしてましたw当時はキハ40が走っていたので乗るのが楽しみでした・・・
小学生の頃、急行越前か能登で親戚のいる富山方面に行っていました。旧型客車でしたよ。帰りは長岡まで出て特急で帰っていました。
この本数を大宮まで複線で対応していたので普通を増発すると完全キャパオーバーですね🚃
貨物線(現湘南新宿ライン)はあっても貨物専用だったし、この線に旅客を流す考えがなかった
当時7歳でブルートレインブームが始まった時です‼️8歳で鉄道模型のNゲージのブームで10歳でいい旅チャレンジ2万kmが始まりいろんな列車に乗りました。この頃は急行荷物列車が上野駅の低いホームを使っていて現在の四季島で使用している短いホームにトラバーサーと言う小荷物を扱うものがありました。普通列車、電車が少ないのは荷物列車があった為だと思います。大宮~上野までは京浜東北線が各駅停車扱いだったので中距離電車は浦和駅をラッシュ時以外は通過してましたね。😅 普通でも10系B寝台3段使用を連結してる列車は名前がついてましたね。L特急と言う表記が懐かしいですね‼️
私の夜行列車一人旅のデヴューは13番ホーム1927発「津軽1号」でした。1977年7月31日でした。
7時13分発、宇都宮までグリーン連結の黒磯行きは、東海道線の編成なのか、特急車の間合いなのか、気になりました。E231系導入前に宇都宮線普通列車にグリーン連結があったことが驚きです。
私の記憶がたしかであれば、急行電車の車両を使っていました。165系?ですか?オレンジと緑の湘南電車色の電車です。
なんかスゲェとしか…あ、当時1歳3ヵ月でしたw
東北本線の7:00~19:00間の毎時0分発が16:00以外「ひばり」で、30分発が、「やまびこ」か「はつかり」となっている所に当時の事情が反映されている様に思えます。現在の中央線の「あずさ」「かいじ」、常磐線の「ひたち」「ときわ」の時刻で考えれば逆になっていますから。
16時のはつかりは北海道連絡の最速列車で、優等列車の中でも最優先の感じですね
上野発磐越西線経由新潟行きは熱い。
普通長岡行きもあったんですね今でも長距離普通列車があったら僕は全区間乗り通しました
浦和止まってないあと長岡行きすげぇ
普通長岡行きは昭和60年くらいは普通にありました。今では少なくなりましたが普通黒磯行きは結構多かった記憶があります。
@@hayato0905y なるほど
1回だけ乗ったことあります。
自分的に浦和に停まりだしたのはつい最近ですw
上野始発や中・長距離列車が多い時代ですね。
8:16発 快速水上・前橋行きって初めて聞いた列車でしたどんな列車だったのでしょうか?
「とき」がしれっと大宮を通過してるよなリアルで見た記憶あるけど、大宮というターミナルを通過するのでかなりびびった一方、浦和は普通列車にすら通過されていた
高崎線は21時以降の普通列車が4本、2213長岡行きは115系の夜行列車(7両)、最終列車は長野からの急行の折り返し^^;東北本線は2207分の後の電車は大宮始発で高崎線が接続🚃週末の22時以降の電車は発車20分前迄に乗らないと座れなかった👍2125と2324は165系車両を使用していてグリーン車を無料開放🎵まあまあの乗り得電車だったな🙆いやぁ懐かしい✨
皆様
たくさんのご視聴・コメント頂きましてありがとうございます。
新たに常磐線の列車も追加しました動画も投稿しましたので、併せてご覧いただければ幸いです。
ruclips.net/video/IlpwVfGZ88I/видео.html
私がよく利用したのは、夕方上野を出る福島ゆきでした…基本は宇都宮のEF58の牽引でしたが、共通運用だったデッキ付きのEF57が運用に入る事も。また翌日の改正で黒磯打ち切り&115系置き換えとなる125列車福島ゆきの先頭に立ったのは…何と当時あけぼのも牽引していたEF65PFでした😲!そして別件ですが、小6の夏に初めて母の実家の会津若松に行った時、往路は583系のはつかり1号と455系のばんだい1号のグリーン車同士を郡山で乗り継ぎ・帰路は夕方に会津若松を出る臨時特急あいづ51号でした。帰路は東北線内で先行していた急行が落雷を食らった影響で当時寂れた東那須野…現新幹線停車駅の那須塩原…で2時間以上足留めを食い、上野に迎えに来てくれていた父と赤羽ゆき最終電車に乗る羽目になりました😖会津若松滞在時には、まだC11が旧型客車を牽引していた日中線にも乗りましたっけ✨
現在この長距離を運行する列車はなくても、はるか遠いところまで上野駅から鉄路が繋がっていたんだなって思うと感動します。
個人的には(しな鉄)屋代から長電に直通して湯田中に行っていたのも熱いですね
普通 一ノ関行き
宇都宮から各駅に止まります。
すげぇ...
8:35
一体、何時間かかるんだ…
普通というより快速ですね。上野~一ノ関だと7時間はかかりますね。
父がまだ車の免許持ってなかったので
親戚の家に行くのに良く乗ってました
埼玉から栃木でしたけど
その頃は、電車ではなく客車でしたね
快速ではなく、完全に各停でしたよ。
親と次は「ママだ」(間々田)って言ってましたから(笑)
当時は上野⇒一ノ関まで乗り通した人は何人いたのか気になります
まさかこの数ある優等列車の中から草津が生き残るとは誰が想像できたであろうか(しかも特急に格上げされて)
165系急行「草津」
→183系特急「草津」
→185系特急「草津」
→651系特急「草津」
→E257系特急「草津・四万」
今でこそ籠原行とかよく走ってるけどこの時だと鬼ほど短い距離の運転に見えるw
乗り換え無しで今のしなの鉄道へ行けたいい時代
22時台の普通、長岡行きって
泥酔で寝過ごして気付いたらそこは
越後の国なんて恐怖もあったんですね。
「およそ鈍行を通す隙間など存在しなかった」と聞いたことがあるが、まさしくその通りやな・・・
上野-大宮間が平行ダイヤになる直前の時刻ですね。
当時は赤羽で先行列車追い抜きなんて光景もありました。
私はこの時代に通学で使ったりしていましたので、よく覚えていますので便乗して昔話を。
特急急行だけで超過密だったこの時代は、大宮駅のホームも奪い合いだったので大宮通過の特急も多々ありました。速度を緩めないで大宮を通過する特急電車は迫力がありました。
日中は普通電車が使い物にならないので、大宮までは京浜東北線を使うのが当たり前でした。その普通電車も高架ホームだったり地平ホームだったりとバラバラでしたし。
数本あった客車普通列車は主にEF57が牽引していました。曲がりくねったポイント群をクリアしてゆくデッキ部分の台車の迫力と言ったら、それはもう…!
夜行の急行はほとんどが赤羽通過でした。客車列車は速度の上がりが悪いこともあったのですが、赤羽線からの客のキセル防止の意味もありました。上野から乗り込むキセル狙いの客を捌くだけで大変だったのです。
夜行列車が多く出る時間帯は特に地平ホームは壮観でそして大層五月蠅い物でした。ここにはない常磐線経由のゆうづる号も含めると3本も4本も並び、それぞれに間違えて乗らないようにとホームからひっきりなしに注意放送が流れるけれど、電源車の音がそれを上回るほど五月蠅く、ホームではその後の列車を待つ乗客が座って酒盛りしてたり、荷物車に積み込む荷物を運ぶガソリンカーが客を搔き分けて走り回りと、排気ガスの匂いと酒そして立ち食いソバの匂いとが混ざって、子供の私には「何か来てはいけないところに来てしまったのではないか?」と錯覚を起こさせるほどでした。
現在も時々上野駅を利用しますが、長距離列車はほとんどが新幹線になり、その新幹線も上野から利用する人はほとんどいない光景を見るととても寂しい気持ちになります。
大宮駅通過の特急には衝撃を受けました。
そういう訳だったのですね。
時代を駆け抜けた思い出の名列車と共に聴く名曲もたまりませんね。
めちゃめちゃ興奮するなこの時刻表!
やまびこ1号の停車駅ヤバい、大宮の次の停車駅郡山って・・
この翌年10月改正で宇都宮停車になりました。
東北本線を通る特急や急行が数多く停車した時代に比べたら、宇都宮は凋落したな
懐かしすぎて、鼻の奥が痛くなりました。あかぎも、わたらせも、信州も、思い出があり過ぎる。。。
ちょうど鉄道にはまっていった時でしたが、なにぶん小学1年生。上野駅は憧れのまた憧れの土地でした。これに常磐線が加わるのですから、往時の上野駅たるや・・・。
ホームの上に乗車札が夥しい数ぶら下がってた頃
あれ全部手作業で行ってたんですよね。
今だったら考えられないですよね。
急行あかぎ小山行き、急行つくばね勝田行き
両毛線や水戸線を全区間走破する急行って、なんだか今となってはすごいことだと思う
小山駅を通らない短絡線懐かしいですね。
水戸線は常磐線日暮里-友部よりも先に開業、水戸までのメインルートだった名残かも。
急行つくばねは私も2回程乗車したことがあります。(上りのみですが)確か水戸線内は普通電車(結城―勝田
)でした。ちなみに現在の水戸線は小山―友部(一部水戸・勝田・高萩)の普通電車のみでしかもワンマン運転です。余談ですが、水戸線内でも1日3本くらい客車列車が走っておりました。(残念ながら乗ったことはありませんでした。)
すごい...こんなに急行と特急が...
普通列車もすごいロングラン...
群馬県民だが熊谷から先の快速列車があったのがうらやましい
日光行きの普通列車が一日に何本もあるのは意外でした。
早くから電化されてお召列車も運行されていて、東北道からの有料道路が出来るまでは東武と共に今と比べ物にならない輸送量だったようです。
今は逆に東武とJRで呉越同舟として東武からもJRからも特急運行。
当時特急・急行以外は全部普通だったんだな、と思っていたら既に当時快速(8時16分発 水上行き)があったのが意外でした。
快速なんて新幹線開業後に誕生したものだとばかり思ってました。
停車駅も面白いですね。
浦和通過で宮原停車。
今は逆ですが。
朝方の東北・高崎両線の快速は、更に前には115系での遜色急行だった筈。中央線のかいじ&かわぐちにも115系での運転がありましたが、こちらはサロ165を改造&スカ色化して連結していた時期があったようです。
今高3の俺にとっては上野からあり得ないような行き先ばかりで見ていて面白いです。親父の実家が熊谷の近くにあり、友人が終電がわりに能登を使ったら寝過ごして直江津まで行ってしまったという話を聞きました
それ、自分の会社のOBがやらかして今でも語り草になってます。
「すみません、今日、会社にいけません。目の前に日本海があります!」…と、翌朝会社に電話したらしいですよw
宇都宮線・高崎線の普通列車の本数の少なさは今から考えると衝撃的
特急、急行が多すぎて普通列車が上野まで割り込めないので
大宮始発の高崎線、東北線の普通列車がありました。
@@194194 さらにそこに貨物と荷物列車が入ります。
普通列車はオマケで走ってた感じですね。
今は普通列車が主役のダイヤですよね。
東北新幹線開業後は、全国から115系をかき集めて中距離電車主体のダイヤとなりました。
この本数しかない上にストライキや順法闘争なんかされたら暴動が起きるのも必然か。
素晴らしい。高崎線確かにあさまの後4分後にときが続いていました。毎時46分と49分の頃もありました。常磐線もお願いいたします。
東北本線、高崎線の普通列車は、それぞれ30分間隔でした。
今では考えられないですが。
懐かしい!急行や特急の全盛時代。今とは違って東北線は低いホーム、上越線は高いホームで別れていたんですね。
19番線、20番線懐かしいですね。18番線は痕跡残ってますね。
懐かしい列車の数々、涙が出そうになるほどでした。
よくぞここまでお調べになられて…と、敬服いたしました。
16時40分急行つくばねは小山には寄らず、ひとつ手前の間々田に停まり、短絡線で水戸線に入っていた。水戸線では当時無人駅だった小田林と東結城以外に停まってました。子供の頃田舎に行くときはつくばねだった。
東北線の福島行・一ノ関行の客車普通列車が懐かしいです。それも当時既に電車ホームになっている東大宮と野木が通過。さいたま新都心・土呂・新白岡・東鷲宮・自治医大は当時未開業です。
懐かしくも興奮して見ました。特急・L特急・急行・寝台列車…よい時代でした。特急が今の新幹線、急行が今の特急というところでしょうか。特急の停車駅の少なさに、これが特急だよなと思いました。
特急としての威厳があった時代でしたね
この時期の東北本線出発時刻表は懐かしいですね。
東海道線の早朝に到着する夜行列車から一番の日光行に乗換えたものです。さらに宇都宮、黒磯で乗換えました。
早い時間帯の夜行列車は八甲田、津軽1号を、遅い時間帯では津軽2号を利用しました。
普通一ノ関、郡山、福島行きがありましたよね。でも当時にくらべると普通列車なら黒磯以北は本数も増えて到達時間も短くなってべんりになってます。
ありがとうございます。素晴らしい動画です。懐かしくて涙がでます。L特急とき13号は最終新潟行きですね。上野の次は水上ってびっくり。それから盛岡行き特急やまびこ号や寝台特急北星、仙台行き急行新星に乗ったこと思い出しました。新星は生まれて初めて乗った寝台列車でした。20系の中段でしたがとても興奮しましたよ。大宮で眠くなり、起きたらもう仙台手前の長町駅通過中でした。またかなり小さい頃特急白山2号に乗って、父の実家の金沢に行きました。雪で金沢着は2時間遅れて特急券払い戻しになりました。改札口に行く途中、金沢駅で雪まみれの名古屋発特急ひだ号が到着したことも覚えています。ほんとうに鉄道が楽しい、良い時代でした。
当時は東京に住んでいましたが、現在は金沢にいます。
かつての伝説の列車たちを現在のLED表示板で表現するなんて渋すぎる。しかもBGMと時計の分を秒に換算して表現しているのも秀逸。ただただ脱帽するばかり...
25:43からの東北本線が全部寝台特急になってるの好き
寝台列車の全盛期ですね。
懐かしいですね。
白山は3号までありましたかね。急行越前。北陸号、能登号、思い出があります。
上野駅もこの頃は本当に、にぎやかでしたね❗。
いい時代でしたね。
ありがとうございました。🙇
23:58発「妙高5号」直江津行・・・夏休み、母親の実家に帰省する時乗りました。走行中ドアが開けられる旧型客車座席車5両プラスA寝台1両B寝台2両荷物車郵便車の編成でした。
この映像をみて、当時の長距離特急の停車駅の少なさには驚かされる。現在の特急はかつての準急並みである。
一方で、普通列車の本数の少なさにも驚かされる。(多くの優等列車に線路を占拠されていたから、増発もままならなかったと思われる。)
因みに6時20分発の高崎行きは、客車普通列車でした。
はつかりややまびこ、はくたか、いなほはとくに少なかったですね。
ときやひばりのように所要時間3時間から4時間でも食堂車付いていたのでやはり採算度外視だったのですね。
普通列車は大宮発着になりますね
新幹線が出来て、確かに便利にはなったかもしれませんが
それと引き換えに失ったものも
沢山あるのだなと感じました。
今も少しありますがホームにはたくさんの列車名の札が吊るされていましたよね。おがとか天の川なんか見るとほのぼのしました。
普通列車でも時間帯によっては浦和駅通過の時代でしたね懐かしいです。
当時、浦和駅周辺の大きいお店と言えばイトーヨーカドーでした。
16:00発のはつかり5号、これが何故か1Mでした。
そう、1M(はつかり5号)→1便(青函連絡船)→1D(おおぞら1号)と接続し、
上野~青森~函館~(札幌)~釧路を全て「1」を冠した列車と船で繋いでいたんですね。
北海道連絡の最速列車でしたね
当時は当たり前に存在してた急行、寝台そしてここにはないが準急の種別が今じゃ過去のものになったと思うとなにか寂しく、儚く感じる。スピードと快適性を追い求めてきた結果が新幹線による速達化と快適性の向上だったが同時に長年人の流れ、物の流れ、道中の空気、そして各地の景色を車窓からのんびりと眺める事の出来る正に人の持つ5感を最大限に感じれる、旅とはなにかと考えれる長距離列車が次々と消えていき、今じゃ片手で数えれるほどの先を急ぐ特急が生き残ってる。新幹線が北海道から鹿児島まで繋がり各地の都市と繋がるようになれば、その時には特別な特急とは別の「生活の1部になっていた特急の種別と列車旅」って言葉が一緒に消えていくのでは無いかと思う。
「時間は有限」って言葉の通り、現代社会において時間をお金で買うのが当たり前になってきたが、時間を捨て快適性もすてて長距離列車に揺られ、「ヤット目的地に着いた」時のあの達成感と疲労感を味わう、当時の人が感じれたそんな経験をしたい。
鉄道ファンにとって、今となっては夢のようなダイヤですね!
この頃の上野駅に行ってみたかったです!
現代の人には現実は厳しいですよ。タバコ臭い車両と、デッキ付近は開放式のトイレのせいでアンモニアくさかったですよ。あと今はほぼないですが、痰が地面にいっぱい落ちていた記憶があります。駅のトイレも使えたものではないほど汚かった。衛生的には最悪でした。
唯一よいのは食堂車の美味しそうな匂い。
但し寝台列車はヘッドマーク無しでしたけどねこの頃は。
@@hayato0905yさん タバコが吸えない所の方が少なかったですからね。新幹線、特急、急行(以上国鉄)、国鉄普通列車の郊外区間、駅構内、飲食店、病院内、大学構内とまあどこでも吸えました。東京ディズニーランドだってアトラクションや売店以外はどこでもタバコが吸えました。嫌煙派の人が当時にタイムスリップしたら発狂してしまうのではないかな。
夢のようなダイヤで自分も感動しましたが、いざ利用するのかといわれれば、便利な新幹線・どこでも行ける自家用車を利用して、結局利用しないんだろうなぁとしみじみ考えてしまいました。
新幹線の開業で便利になった現在ですが、20代の私にとってはこの時代がとても羨ましく思います。
急行のボックス席で偶然乗り合わせた方と語り合いながら同じ時を過ごす。
時は金なり、個人主義の現代において、実は見過ごされている重要な要素、そんな人々のコミュケーションがこの時代にはあったのかもしれません。
楽しそうな時代ですね。しかし実際に当時を生活してみると普通電車の少なさに不満を感じるかもしれないですね笑
混雑もなかなか激しそうですよね
特に高崎線の大宮以北なんかは当時宅地開発が進行してなかったことを考慮しても厳しそう
今から40年ほど前でしょうか、高崎線のとある駅では時間帯によって普通列車が1本も走っていない時間帯もありました。
@@国鉄ジェネレーションリターンズ やべぇ時代ですね
今は「白山」が北陸新幹線になってはるかに便利になりましたね
わぁ~!懐かしい列車や行先が盛り沢山。当時は良い時代だったな✨
当たり前かもしれませんが、籠原行とか小金井行とか今もあるダイヤがこのときもまだ運行形態が変わってないのが感動
この時期に、高崎線に縁がなくて良かった。むちゃくちゃローカル線、今でも乗るたび見るたびため息が出る。ため息の高崎線
ローカル線?とんでもない!
首都圏と上信越、北陸、羽越方面への列車が行き交う重要路線ですよ。
この頃から高崎線沿線に住んでますが、優等列車の多さと貨物の多さは、ハンパなかったです。
現在ほど通勤路線ではなかったものの、高崎線内の急行停車駅を見れば、普通列車不足分を補っていましたよ。
1977年といえば自分が上野の鉄道高校に入学した年で試験で学校が早く終わると11時19分の一ノ関行きで帰ってました。もちろん車両は旧型客車です。
懐かしい・・・目頭が熱くなった。
奥羽本線の横手に本家があって「急行おが」「寝台特急あけぼの」「特急つばさ」などによく乗りました。
正月・GW・お盆休みなどの混雑期にはデッキや通路に新聞紙を敷いて座ったりしてましたね。
少し後の時代ですが始発電車に乗って上野や東京駅に行って撮影をしていました
ちょうどブームで早朝から自分と同じような小学生・中学生がいっぱいいた
田舎が岩手だったので上野駅は今でも帰ってきたと思える駅です
「終点に着くのいつだよ…」となるような真夜中に出る長距離普通列車や、聞いたことの無い急行など、面白い列車がいっぱいで、感動しました!!
普通一ノ関行きとかですね(宇都宮から各駅)。
普通長岡行き長岡駅に何時に着くんだろと思ってしまいますね今でも長距離普通列車が存在していたら全区間乗り通してみたいなと思いました
中学生の夏休み、学割使って乗った急行よねやま•••
懐かしいですねぇ。
普通の客が乗れる普通電車少ないこれじゃ高崎線とかが地獄みたいな混雑になってた事がよくわかる
しかも埼京線もなく混雑が集中。暴動がおきるのも無理はない。
なぜ停車駅が「尾久、赤羽、大宮から各停」
で浦和がないんだと思ったら
1982(昭和57)年から中距離列車の終日停車開始なのか
浦和もそうですし、川崎とか(横須賀線は停車)、松戸・柏とか、中距離電車は通過してましたね。
昔の高崎線、東北本線の普通列車は浦和駅通過があったので迫力がありましたね
当時特急で輸送量が満杯だったので
今よりも多くの割合を緩行線側に任せざるを得なかったのでしょうね
@@user-komcom 74年の時刻表持ってますが(自分は2000年代の人だけど...)、中距離電車は大宮発着も結構多いだったようです...
@@RS-nq8xk そういえばそうらしいですね
なんかやけに普通列車少ないですね、1〜2本の時代だったんですね、高崎線両毛線回りの小山行き、吾妻線直通現在の長野原草津口行きにしても現在は乗り換えが必須なのに国鉄時代はレアですね、急行列車も含め
特急はたくさん走ってるけど鈍行列車は少ないね
6時20分の高崎行きを逃すと
53分後の黒磯行きまで隣の尾久駅に停まる電車が無い…
北関東主要駅の最終が急行等を使うことで今より遅くなるという事実に衝撃(ムーンライトながらに横浜までの指定席券持ってたリーマンよりびくりつだ)
とても興味深く見ています。
また、ヒーリングとしても聞いています。
母の実家が富山で夏休み夜急行で上野から10時間以上かけて行ったのを思い出しました。もちろん自由席なので朝から上野駅で場所取りをホームの時刻の札の下で新聞紙をひいてお母さんの作ったおにぎりを食べながら座って並んでました。もちろん冬は寝台特急で行きました。寝台車も窓に並行の寝台でした。懐かしい思い出です。
その当時は生まれていなかった身ですが、とてもロマンを感じます。
一方でこれだけの特急・急行車両を運行していたとなると、そりゃ赤字にもなるよなぁと
これにさらに常磐線もあるわけですからね、、
上野駅にカメラ持って写真撮りに行き始めたのは、私は82年ぐらいからでしたね~。
ざおう3号が仙台行きに(T-T) 懐かしい。さらに下ホーム端っこ側から常磐優等の発着があったからね~ お疲れさまでした。
みちのく懐かしいですね。
上野発長岡行きなんてあったんですね…この頃はロングラン運用が多いですよね…!
でも小金井行きとか宇都宮行きとかよく見る行き先もありますね!
まさしく「北の玄関口」ですね。こんな時代があったんだなぁ。
この当時、私の父は入場券を買って1日中駅のホームに居たことがあるそうです(笑)
その頃は、入場券の時間制限がなかった上、ホームに駅そば屋さんなどがあったため、列車を待つのもほとんど苦ではなかったそうです。
しかし、早朝に発券された入場券で深夜に改札を出ようとしたら駅員さんに「お前は今まで何をしていたんだ!?」と、ツッコミを入れられたと聞きました(笑)
155系、455系、183系、189系、485系、583系などが活躍していた時代ですかね
そんな車両ももうなくなってしまいましたね
(455系はまだある)
古き良き時代ですね、僕が物心持ち始めた頃は既に国鉄からJrに変わってからだいぶ時がすぎた時、小さい時にポケモンのスタンプラリーに行って、その途中に189系と583系を見ました。
特に583系は最初に見た時「何だこのでかい電車は?!」と思いました
僕もこの時代に生まれたかった……
子供の頃、家族で東京から小山に帰宅する時、急行に乗って帰った覚えがあります。
かなり混んでていて、出入り口付近でずっと立っていて外を眺めていた思い出があります。
確か間々田駅で、時間調整か何かで一時停止したんだよな。扉は開きまませんでしたけど。
大宮、高崎、宇都宮通過する特急があったんですね。
当時
特急やまびこ
特急とき
特急ひばり
現在
上野東京ライン
上野東京ライン
上野東京ライン
1998年の大学受験の帰りに渋川行に乗って群馬に帰ったっけ。最近まで伊勢崎行とか横川行とかあったような気がするけど、今や前橋行でさえ少なくなっちゃった。
さすが
「北の玄関」を象徴するダイヤ。
そりゃこれらを題材にした曲
(特に演歌)が生まれる訳ですね。
高崎線上越線に普通長岡行きにびっくりしました。
意外と昼夜を別たず特急・急行があちこちの街の駅にきめ細かく停車している・・・。当時の国鉄は、昨今の新幹線と異なり、小さな街をも切り捨てず、むしろカバーしていてそれなりの高サービスの提供を考えていたことが窺えます。ある意味、本当の意味での地域密着型サービスとも言えそうです。良い動画をありがとうございました。
私自身のまだ子供の頃である。懐かしいですね。少なくとも小学校に上がるまでです。
とにかく長距離輸送に特化してて普通列車の本数がマジで少ない
東海道線は大船まで横須賀線が、東北本線は大宮まで京浜東北線が線路を共用していたけどそこから先は長大編成、本数少なめの「列車型ダイヤ」で不等時隔の普通列車を待つしかない...利用者には不便極まりないな
だからこそ新幹線は正解だった訳でそこに長距離輸送がシフトしたから普通列車の本数が激増して使いやすいダイヤになったんだけど、やっぱり在来線長距離列車ってロマンあるよね
その分中国やドイツはいいよなぁ、高速鉄道が全国に伸びても当たり前の様に在来線長距離列車が幅を効かせてるんだもん...高速鉄道は高嶺の花、あくまでも飛行機への対抗であって庶民の移動は在来線長距離列車、ってスタイルがクッソ羨ましい...
懐かしすぎて涙が・・・
東北本線欄に新潟とか高崎線欄に小山とか頭バグるんだよなぁ・・・
とても懐かしく拝見いたしました。
上野到着前の車内放送の乗り換え案内で、○○は高いホームの○番線、○○は低いホームの○○番線という車掌のアナウンスが思い出されます。
今は新幹線の全列車が停車する大宮を通過する特急が沢山ありましたね。
当時は-27歳なので本当にこんなダイヤがあったのかと疑ってしまいました。特急や急行は異常に多いのに普通がかなり少ないですね
夜行列車がちらつき始めた頃にチューリップの「旅」に変わるのエモすぎるな....
いなほって上野から青森まで走ってたのか!
懐かしいですね。親の教理が仙台で「ひばり」には大分お世話になりました。ただ、「はつかり」や「やまびこ」には乗れなかったなぁ。大宮にはすべての特急が停車すると思っていましたが、東北、上越ともに結構通過してたんだなと気づかされました。夜行は、常磐線回りが多かったので常磐線も載っていると地下ホームの特急並びが想像できて楽しいですよね。もち、カメラ小僧でしたよ。ただ、自宅へ帰れなくなるので夜行列車は撮れなかったなぁ。到着時刻も早かったんでブルトレは東京駅でしたね。
普通列車なのに停車駅案内出されてるよ(しかも結構飛ばしてない?)…まじでビビってます
急行いいで、東北本線から磐越西線経由の新潟行き!?果たして乗り通す人は居たのだろうか。
今もこの列車があれば、動画のネタで乗り通すRUclipsrが間違いなく出てくると見た。
スーツさんやがみさんは間違いなく挑戦してたでしょうね。
この列車、案外と乗っていたんですよ。
関東から会津若松までの乗客に加えて、(仙台)-郡山-新津・新潟の乗客が加わるので、郡山発車時点では繁忙期だと立客も多数出ました。
ちなみに、グリーン車以外は非冷房でした。猪苗代湖畔で風が通るようになるまでは暑くて暑くて;;
大変素晴らしい動画ではありましたが、東北線、16時40分発の急行「つくばね」(水戸線経由勝田行き)で、停車駅に「赤羽、大宮、久喜、古河、小山、小山からの各駅」とありましたが、古河から先の停車駅、私の記憶では
「間々田、結城、川島、下館、
下館からの各駅」で、結城からは普通列車であったように思います。
当時、私は水戸線沿線に住んでおり、昭和60年3月の廃止までにこの列車は何度も利用しましたが、古河、間々田と停車、小山駅の入口から水戸線の線路に方向転換無しで入れる貨物線を通り、小山駅のホームに入らずに水戸線に直通しておりました。
最近入手した復刻版時刻表(昭和47年版と同57年版)でも、この経路となっておりました。なお、普通列車になる区間は、47年版では下館と勝田の間(停車駅は、赤羽、大宮、古河、間々田、結城、下館、新治、岩瀬、稲田、笠間、友部、水戸、勝田)、57年版では結城と勝田の間(赤羽、大宮、久喜、古河、間々田、結城、結城より先は東結城を除く各駅に停車)となっています。52年当時、自分の記憶では結城から普通列車で、東結城通過だったように思いますが、当時の時刻表やその復刻版が無いためわかりません。
お忙しいところ恐れ入りますが、ご確認をお願いいたします。
四角のお茶のパック、よく買いました。
親の実家が烏山でしたので、上野から宇都宮まで「急行なすの」に良く乗ってましたね。
宇都宮から烏山線に乗り換えるのですが1時間に1本くらいしかないので、時間がある時は駅ビルラミアでラーメン食べたりしてましたw
当時はキハ40が走っていたので乗るのが楽しみでした・・・
小学生の頃、急行越前か能登で親戚のいる富山方面に行っていました。
旧型客車でしたよ。
帰りは長岡まで出て特急で帰っていました。
この本数を大宮まで複線で対応していたので普通を増発すると完全キャパオーバーですね🚃
貨物線(現湘南新宿ライン)はあっても貨物専用だったし、この線に旅客を流す考えがなかった
当時7歳でブルートレインブームが始まった時です‼️8歳で鉄道模型のNゲージのブームで10歳でいい旅チャレンジ2万kmが始まりいろんな列車に乗りました。この頃は急行荷物列車が上野駅の低いホームを使っていて現在の四季島で使用している短いホームにトラバーサーと言う小荷物を扱うものがありました。普通列車、電車が少ないのは荷物列車があった為だと思います。大宮~上野までは京浜東北線が各駅停車扱いだったので中距離電車は浦和駅をラッシュ時以外は通過してましたね。😅 普通でも10系B寝台3段使用を連結してる列車は名前がついてましたね。L特急と言う表記が懐かしいですね‼️
私の夜行列車一人旅のデヴューは13番ホーム1927発「津軽1号」でした。1977年7月31日でした。
7時13分発、宇都宮までグリーン連結の黒磯行きは、東海道線の編成なのか、特急車の間合いなのか、気になりました。E231系導入前に宇都宮線普通列車にグリーン連結があったことが驚きです。
私の記憶がたしかであれば、急行電車の車両を使っていました。
165系?ですか?オレンジと緑の湘南電車色の電車です。
なんかスゲェとしか…
あ、当時1歳3ヵ月でしたw
東北本線の7:00~19:00間の毎時0分発が16:00以外「ひばり」で、30分発が、「やまびこ」か「はつかり」となっている所に当時の事情が反映されている様に思えます。現在の中央線の「あずさ」「かいじ」、常磐線の「ひたち」「ときわ」の時刻で考えれば逆になっていますから。
16時のはつかりは北海道連絡の最速列車で、優等列車の中でも最優先の感じですね
上野発磐越西線経由新潟行きは熱い。
普通長岡行きもあったんですね今でも長距離普通列車があったら僕は全区間乗り通しました
浦和止まってない
あと長岡行きすげぇ
普通長岡行きは昭和60年くらいは普通にありました。今では少なくなりましたが普通黒磯行きは結構多かった記憶があります。
@@hayato0905y なるほど
1回だけ乗ったことあります。
自分的に浦和に停まりだしたのはつい最近ですw
上野始発や中・長距離列車が多い時代ですね。
8:16発 快速水上・前橋行きって
初めて聞いた列車でした
どんな列車だったのでしょうか?
「とき」がしれっと大宮を通過してるよな
リアルで見た記憶あるけど、大宮というターミナルを通過するのでかなりびびった
一方、浦和は普通列車にすら通過されていた
高崎線は21時以降の普通列車が4本、2213長岡行きは115系の夜行列車(7両)、最終列車は長野からの急行の折り返し^^;
東北本線は2207分の後の電車は大宮始発で高崎線が接続🚃
週末の22時以降の電車は発車20分前迄に乗らないと座れなかった👍
2125と2324は165系車両を使用していてグリーン車を無料開放🎵
まあまあの乗り得電車だったな🙆
いやぁ懐かしい✨